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新病院概要
未来へ続く病院づくり

日本屈指の医療技術と高度先進医療を、
心の通い合うサービスで提供し続けるために。

新病院の目的

アクションプラン21の再開発計画の中で、新病院の建設は最も大きな事業となります。ここ日本医科大学付属病院は明治43年に開院して以来、専門家による高度な医療技術、設備を備え、地域医療に幅広く貢献してきました。しかしながら昭和43年(1968年)に建設された建物は老朽化が進み、日本医科大学の「全ては患者さんのために」という理念を守っていくためには、ハード面での充実は必要不可欠でした。我々は「未来へつづく病院づくり」として新病院の建設に着手いたしました。

新病院のコンセプト

・患者さんの快適さを確保する[現在:1,156床、46,000㎡(39.5㎡/床)→ 新病院(予定)848床、82,000㎡(96.7㎡/床)]
・新病院周辺に十分な駐車スペースを持つことで違法駐車を減らし患者さん及び近隣の住民の皆さんの安全を確保する
・広いホスピタルストリートを設け、利用者の方々の利便性を高めると同時に、災害時の救援活動の拠点として活用する
・全ての人が利用しやすいユニバーサルデザインを取り入れ、万人に快適な施設とする
・光と緑を意識した空間設計で、憩いと安らぎを提供する

これらのコンセプトによって、新病院は患者さんの快適さと安全性を高め、全ての人に優しい病院を目指すと同時に、高度情報化対応の最新の医療環境を実現いたします。
来年平成26年(2014年)には一部機能が新病院にて運用開始の予定です。これからも、患者さんに「ここに来てよかった」と思って頂ける病院を目指してまいります。


スケジュール

①2010年5月?2011年6月 第1期移転・解体
②2011年6月~2014年4月 新病院棟 前期竣工
③2014年4月~2015年4月 第2期移転・解体
④2015年4月~2017年7月 新病院棟 後期竣工
⑤2017年7月~2018年2月 第3期移転・解体
⑥2018年2月~2019年6月 渡廊下・駐車場・外構 竣工

上記のように病院施設を継続的に運営しながらの建替となるため、全体で約8年間の工期を必要とします。

新病院内部イメージ図

新病院の建物概要

  現状本館 新病院(予定)
構造 耐震構造 免震構造(中間階)
階数 地下2階 地上8階 地下5階 地上10階
床面積 約30000㎡ 約60000㎡
病床数 686床 594床
1床あたりの床面積 約45㎡/床 約100㎡/床
重症病室 ICU: 17床(東館)




CCM: 41床(東館)
S-ICU: 20床
S-HCU: 16床
G-ICU: 12床
CCU: 12床
SCU: 8床
CCM: 43床
新生児重症病室 none NICU:3床
GCU: 6床
手術室 15室(東館) 21室
連絡通路 地上のみの1本 地上及び地下の2本
エレベーター 6台(本館)+6台(東館) 23台(駐車場棟含む)
駐車場 本館敷地内に無し 177台
*上記予定に東館は含まれません。


階構成
断面図

上記、新病院に関する内容は2013年7月時点のものです。今後予定が変更される可能性もありますので何卒ご了承下さい。

アクションプラン21

アクションプラン21の経緯

日本医科大学は明治9年(1876年)に長谷川泰により設立された「済生学舎」を前身とし、明治43年(1910年)千駄木地区に移転と同時に付属病院を開院して以来、この地で医学者の育成、医学の発展に力を注ぎ続けてまいりました。 日本の近代化と共に歩み続けた長い歴史の中で、大学、付属病院の関連施設は老朽化が進み、大学棟は昭和46年(1971年)、付属病院は東館を除き昭和43年(1968年)に建設を終えた建物を利用してきております。 このような状況の中、創立以来、世界トップレベルの評価を受け続けてきた教育、研究、診療を今後も維持し、未来へつながる医療、医療人を創っていくためには、建物、設備の再開発が必要不可欠であるとの判断に至りました。 そこで平成18年(2006年)に創立130年を迎えた節目に、千駄木地区再開発事業計画として、学校法人日本医科大学アクションプラン21を策定いたしました。

アクションプラン21の骨子

新しい医療、医療人の創出のため、大学、付属病院の再開発を行う際に、最大限の機能充実を図ると同時に、施設の取り壊しなどによって現在行われている教育、研究、診療を損なう事があってはならないと考えました。そこで、我々はアクションプラン21推進委員会を平成16年4月(2004年)に立ちあげ、次の5つのプロジェクト委員会を設置いたしました。

1.日本医科大学再開発プロジェクト
2.日本医科大学付属病院再開発プロジェクト
3.中央検査部門のありかたプロジェクト
4.資金計画プロジェクト
5.日本医科大学付属4病院経営強化プロジェクト


これら5つのプロジェクト委員会での詳細な検討、十分な議論を重ね、再開発の基本計画骨子を決定いたしました。ここにその骨子をご紹介いたします。

・教育、診療、研究に影響を与えない建て替え計画とすること。
・診療部門の充実を図ると共に、患者さんが快適で安心できる医療環境を整備すること。
・教育、診療、研究をゾーン分けし、機能分化を明確にすること。
・各建物においては出来るだけ空間と緑を確保し、憩いの場を提供することによって全ての人に優しい施設にすること。
・将来の日本医科大学を支える人材育成のため、十分な敷地と最新鋭の施設で教育、研究ができる環境を創ること。
・駐車スペースを十分に増やし、路上駐車を減らすことで近隣の住民の皆さま、患者さんの安全を確保すること。
・地元住民の皆さまへ、大学および病院施設を開放していくこと。
・救急医療の歴史と経験を生かし、災害拠点病院としての機能の充実を図ること。

アクションプラン21のスケジュールと進捗

未来へ続く日本医科大学を見据えた「患者さん本位の病院」「将来を担う医療人の育成」「新しい医療の創生」「近隣住民の皆さまとの共生」を基本理念とした前述の再開発計画骨子から、我々は再開発スケジュールを大きく次の流れで行っていくことを決定いたしました。

① 日本医科大学健診医療センターの開設
② 日本医科大学医学部(教育棟)、日本医科大学大学院(大学院棟)の建設
③ 職員宿舎(根津寮)の解体と新職員宿舎(カーサ・アゼリア)の建設
④ 付属病院第1期工事
⑤ 付属病院第2期工事
⑥ 付属病院第3期工事

現在、上記の①~③は既に完了しております。平成18年(2006年)より運営を開始した日本医科大学健診医療センターは、乳がんをはじめ、がんの早期発見に威力を発揮する最新鋭のPET装置を導入し、日本医科大学の放射線科専門医が診断にあたっており、開設以来非常に好評を頂いております。また病巣発見時には、日本医科大学の専門診療科との連携体制で治療を行っております。
教育棟と大学院棟は平成19年(2007年)に建設が完了し、最先端の教育と研究を行う場として活用されております。学生が2年次以降を過ごす教育棟は、勉学と人間形成を重視し、最新のIT設備を備えると同時にゆとりある空間を確保しております。大学院棟は、最新の機器、施設を備えており、日本医科大学で進められている世界レベルの研究の大きな推進力となっております。
開発計画の最後である付属病院の建設工事につきましては、第1期工事が平成23年(2011年)より開始され、平成26年(2014年)には外来を中心とした一部病院機能を新病院においてスタートする予定としております。また病棟や周辺整備などの第2期、第3期工事は平成31年(2019年)での完成を予定しており、それによって千駄木地区の再開発は完了いたします。

アクションプラン21によって実現する未来

学校法人日本医科大学アクションプラン21千駄木地区再開発事業計画は、日本医科大学創立以来、例をみないほどの大きな事業です。しかしながら、変化する社会情勢、医療の革新に対応するためには、今この時期を逸してはなしえない必要かつ不可欠な改革であると考えております。新しい時代の医学、医療を創出し、最先端の教育・研究・診療活動を通じて、広く社会に貢献し、患者さん本位の病院診療を行うと同時に、地域社会のニーズに応えていくこと、それこそが我々が希望する日本医科大学の未来です。
「ひとつの理想」の実現にむけ、皆さまのご支援、ご協力をお願いいたします。

日本医科大学の歩み

明治維新から間もない明治9年(1876年)、近代国家として歩みを始めた当時の日本において、西洋医の育成は最重要課題の一つでありました。その国の方針のもと、長谷川泰によって、医師の早期育成を目的とする、現在の日本医科大学の前身である「済生学舎」が設立されます。済生学舎は、「済生救民」の思想を建学の精神とし、学是を「克己殉公」としました。「私心を捨て、全ての人々を分け隔てなく助ける」というこの精神は130年余りが経った現在も日本医科大学に受け継がれています。

済生学舎は28年間の活動の後、明治36年(1903年)に廃校を余儀なくされますが、9000名以上の医師、医学者を輩出し、当時の日本の開業医の半数以上が済生学舎出身者で占められるなど、この国の医療の土台作りに果たした役割は小さいものではなく、西洋医の育成による医学の近代化という当初の目的は十分に果たしたと考えられます。この9000名の中には、世界的な細菌学者である野口英世、小口病の発見者である小口忠太など現代の医学界にも名前を残す偉人達も含まれています。また女性が働く事すら一般的でなかった明治の時代に130名以上の女医も誕生させています。

済生学舎廃校に際して、学生700余名の救済のため、旧済生学舎の教員によって同窓医学講習会が開校され、翌年の私立日本医学校の設立へと繋がります。現在の日本医科大学にとって、済生学舎が建学の精神の面からも、実質的な前身であることは疑いの余地もないところでありますが、組織としての始まりはこの私立日本医学校であると言えます。私立日本医学校は、幾度かの組織変更を経て大正15年(1926年)2月に大学に昇格し財団法人日本医科大学となります。慶応大学医学部、東京慈恵会医科大学に続き、私立の医学系大学では3校目の認可であり、このことが現在において医学系私立大学御三家と呼ばれる所以であります。日露戦争、大正デモクラシー、関東大震災、そして世界戦争へ、この明治から大正、昭和へと続く激動の時代において、日本医科大学は誕生し、歴史の波にもまれながらも発展していきます。また、明治43年(1910年)に私立日本医学校付属駒込医院(現在の日本医科大学付属病院)、大正13年(1924年)に日本医学専門学校付属飯田町医院(1997年に閉院)、昭和12年(1937年)に日本医科大学付属丸子病院(現在の日本医科大学武蔵小杉病院)を開院し、診療体制の整備も着々と行われました。

長谷川泰

長谷川泰

済生学舎

戸塚武彦教授の生理学講義の風景(1950年頃)

野口 英世

野口 英世

財団法人日本医科大学として新たなスタートを切った翌年、時代は昭和に移ります。世界的な大恐慌の影響で慢性的な不況、戦争の拡大と重苦しい世相の中、日本医科大学も時代の荒波に飲まれていきます。野外教練、勤労奉仕などが授業に組み込まれる一方、戦争の激化に伴い、職員は徴兵を受け、陸軍、海軍に100名以上の学生が軍医学生として従事しました。終戦間際の昭和20年(1945年)には東京大空襲により多くの施設が消失し、一部の病院実習生を除き大学機能を全て、山形県鶴岡市と福島県須賀川町へ疎開させるという苦境に立たされました。しかしながらそのような状況下でも、大学の本分である教育、研究に対する探究心は衰えることなく、昭和18年(1943年)には73名の学会報告者がいたことが記録されています。

昭和20年(1945年)に戦争が終結すると、一からの復興が始まりました。校舎をほぼ焼失した中での復興でありましたが、OBや在校生父母の強い支援を受けて、終戦翌年の夏には疎開先からの引き上げも完了し、徐々にその大学としての機能を取り戻していきます。

戦後の社会システムの刷新に伴い学制改革がおこなわれ、昭和27年(1952年)に学校法人日本医科大学となります。これによって、日本医科大学は社会の公器としての教育機関となったと言えるでしょう。 また同年には、伝統ある日本獣医畜産大学(現在の日本獣医生命科学大学)と合併し、1法人2大学での運営をスタートしました。

飯田町医院

飯田町医院

昭和13年頃の千駄木キャンパス

昭和13年頃の千駄木キャンパス

付属丸子病院(現武蔵小杉病院)

付属丸子病院(現武蔵小杉病院)

その後も戦後復興、高度成長期と戦後日本の歩みとともに医療体制、設備の充実に努め昭和52年(1977年)に多摩永山病院、平成6年(1994年)に千葉北総病院を開院し、従前からの千駄木、武蔵小杉を加えた付属4病院と市ヶ谷の呼吸ケアクリニック、駒込の腎クリニック、成田の成田国際空港クリニックで首都圏全域をカバーした診療体制を確立するに至りました。

また教育機関としては日本医科大学、日本獣医生命科学大学の他に日本医科大学看護専門学校を、研究機関としては老人病研究所(現:先端医学研究所)、ワクチン療法研究施設を運営し、近年では、「克己殉公」の学是に加えて、「愛と研究心を有する医師および医学者を育成する」という方針を定めて、後進の育成に努めてきました。なお、平成26年(2014年)には日本医科大学と日本獣医生命科学大学の合同校舎が武蔵境キャンパスに竣工し、より活発な学生間交流が促されることで、広い視野を持った人材の育成が期待されます。

平成18年(2006年)に、済生学舎の創立から130年周年を迎えたことを契機に、アクションプラン21を策定し、未来を見据えた医療、医療人を創りだすことを目的に、大学、付属病院を中心に千駄木地区の再開発を始めました。 日本の近代化の歴史と共に歩み発展を続けてきた日本医科大学。アクションプラン21は、これからも日本の未来と共にあり続けるための新しい一歩となるでしょう。

学校法人日本医科大学 アクションプラン21:新病院建設プロジェクト
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